<< 大河・直虎の劇中歌 柴咲コウさんが歌う優しくも切ない美しいメロディー | main | 一年の計は元旦にあり まずはこれからスタート! >>
NHK大河『おんな城主 直虎』女性作家ならではの2017年


2017年は、直虎とともに生き、直虎に影響された一年でした。

女性の脚本家であったことも、私にとっては幸いしていたのかもしれません。子を持たぬ尼にはわかるまい、と、家康の母君にいい迫られたシーン。心に残ります。子を持たぬゆえに、私にはすべてが我が子のように思えますと、凛と言い放った直虎のセリフ。ハッとさせられました。そうだっ、と。救われました。

一年を通して、どう返答したらいいのか悩んで来た諸処のことが、直虎の言い放つ名言によって、活路を見出し続けた一年であったと思っています。そもそも、直虎自身が「追い込まれれば追い込まれるほどに」「活路を見出すおなご」でしたから。



直虎が窮地に立たされたことは数知れませんでした。直親を死に追いやったのも、彼女が徳川を偽った罠の文書を手渡したのが発端でした。妻の「しの」に「さわるでないっ」と怒りをあらわにぶつけられ、最愛の人の亡骸のそばにもいさせてもらえなかった辛さ、わかります。自ら「腐った饅頭になる」ことを選んだとは言っても、彼女の心はずっと直親にときめいていたことが総集編からうかがえました。嬉しかった・・。

直親がおとわを連れて、あの世へと旅立とうとする場面は、総集編からは抜け落ちていましたが、私には忘れられません。「腐った饅頭」を選んだ直虎と直親でしたが、夫婦約束をした幼き頃の思いを、ずっと持ち続けていたことが、あそこで明らかになるからです。直親は、おとわと旅立とうとしていました。母君が、手を離しなさい、直親、おとわを連れていくでない、と、おとわの手を握り返すシーン。財前直見さんの危機迫る演技が、母君でさえも二人の思いがそれほどまでに強かったことに驚きと恐ろしさを悟ったという、名場面を作り上げていたように思います。

直虎の最期は、直親の笛の音に誘われて、ご初代様の井戸に引き寄せられ、直親の笛の傍で、優しい微笑みを浮かべて亡くなるというものでした。ロマンティックでもあり、直親も政次も、そして龍雲丸さえも、みんな一つの魂の塊として実は直虎とともに生きていて、直虎の天寿をまっとうするまで、死してもなお側にいてくれていたということなのか・・・とも思いました。加勢するというか、一人にはさせないというか。龍雲丸も約束を守りました。確かに、先には死ななかったです。



おおじじ様も、叔父上も、井伊が頼りとする男子がすべて討ち死にするという境遇に陥らせた「縁起の悪いおんな」。やけになることも多々あったと思います。政次が身代わりとなり死を選ぶ流れを作ってしまったこともそうです。「先の見通しが甘かった」では済まされないことをした。けれど、それは防ぐにも防ぎようのない、予期もしていなかった謀が動いていたわけで、井伊に徳川が攻め入った際の、あの場面は、見るに耐えないほど悲しくて悲しくて。この世に悪魔がいるとしたら、人の心の隙を待ち、狙い撃ちして、自分の欲望のままに事実を捻じ曲げ、欲しいままにする者でしょう。

近藤殿は、最後には直政の家臣となるわけですが、直虎といい、家康と言い、戦国時代に生きるということは、憎しみも超えて、殺しても足りない相手でも懐に入れて生きていく宿命を背負わされていた時代を生かされていたのかも知れません。政次を刑場に送った張本人を、尼僧であるがゆえとはいうものの、命を救ったのは直虎でした。菩提寺の住職から「怨親平等」ということを教えていただいたことがあります。仏教の教えというものは、人間を鬼畜に貶めないための知恵でもあるのでしょうか。一線を超えないように。歯止めとなるように。



そのほかにも、浅丘ルリ子さん演じる今川のおばば様と直虎との女性同士ならではのやり取りは、女だからこその直感というか、わかってしまうがゆえに逆縁となってしまうあたりが、どうしようもない悲しみとして残りました。おんな戦国大名だったおばば様。「そなたが我が娘であってくれたなら」、あのセリフは、おそらく彼女の本心だったと思います。「自分と似ているからじゃ」と、直虎にバツをつけ、矢を向けるよう仕組むけたとしても、相反する気持ちもあったはず。若き日の自分と重ね、頼もしくもあり、眩しくもあり、恐ろしくもあったことかと。年老いた我が身と、崩れかけた今川のために、命尽きるまで、「年老いた私だからいいのです、哀れみをかうことでしょう」と、武田にも北条にも出向き、お家のために身骨を砕く生き様を見せてくれました。

私は業が深いのか、あの方の生き方に美しささえ感じていました。死んでもなお今川を守らんと、自分の墓は鬼門に、と言い残したヒトです。どれだけの苦難と悲しみと意地で生き抜いてきたお方だったのだろう・・・。直虎とは対照的に情け容赦のないおばば様でしたが、それは、栄華を極めた今川から、没落までを辿るという、直虎とはまた違う壮絶な戦いをしていたからのこと。滑稽に描かれていましたが、氏真がおばば様のために宴をもうけ、徳川方から「あれでは、今川が滅ぶわけだ」と言われてしまう場面がありました。そうした典雅な世界の象徴でもあった人物が、おばば様でした。美しかった。気品があった。最後まで戦った強い女性でした。



あの時代を生き抜くために、誰もが「命のやり取り」と隣り合わせの、油断も隙も無い戦いの日々を送っていました。戦わなければやられてしまう。強いものが奪い、それよりもっと強いものが現れたら、その者がそれらをまた奪う。それと真逆の道を手探りで生き抜いた直虎。それを授けた政次。見守り続けた和尚様。そして、父と但馬の遺志を継ぎ「直政」となっていく万千代(虎松)。直虎の虎は、虎松からとったものだと思うのですが、そうドラマで言ってなかったでしょうか。わたしが勝手に作り上げてしまったストーリーかもしれないのですが、そう思えてならないのです。直親の現し身となり、父として生きることを選んだ直虎。虎の目を持つ血筋というだけにとどまらず、虎松への思いを背負って「直虎」と言っていたと思いたいです。



胸が張り裂けそうな悲しみに、どれだけぶち当たらざるを得なかったか。毎回、観ていて思いました。直親も政次も、結局は直虎のために死んでいったようなもので、一族みなが自分のために死んでいくのを見おくるばかりの人生です。唯一の救いは和尚様がいらしたこと。和尚様にとっては死にゆく順番が逆になったのですから、その悔しさ、寂しさは、堪えようのないものだったに違いありません。その迫力が、万千代に、あの白の碁石を浜松城で手渡すシーンで、ひしひしと伝わってきました。役者さんというのはすごいです。直虎のやってきたことを無駄にしてはいけない。若き後継にどうしてもわからせなければならない。城主とはなんぞや。城主は何をする者であるか。問い詰めながらも、「直政」の名前をもらう万千代に、和尚最後の賭けに出ていたと解釈して観てました。



物語の最後は、直政によって明るい未来へとつながっていくことを匂わせて終わっていきました。が、『おんな城主 直虎』で作者が描きたかったのは、礎となったものたちの生き様であり、意志であり、遺志であり、それを受け継ぐものがどう生きていくのか(それは直虎のことですが)、そこにあったと思います。

直虎が死に、和尚様によって、あの白い碁石が満千代に渡されます。直虎が小さな井伊谷の谷でしてきたことを、今度はそなたが日の本でやれ、と。あのシーンですべて一年間の伏線がまとまった感がありました。和尚様と直虎を演じたお二人は、ずっとドラマに出続けて、その時代その時代に合わせ、年齢も演じ分けておられました。役者さんはすごい存在です。最後に流れた、あの曲。歌詞がつけられていて、最終回にも少しだけ聞こえていましたが、総集編ではしっかりと聴かせてくださり、嬉しかったです。あの歌、歌いたいです。直虎と、あの時代に生きたすべての方々に捧げるレクイエムとして。



私も女です。直虎と重なる部分もあり、今年一年、NHK大河によって、きっと私に天から授けてもらえるものがあると信じ観続けました。その答えはまだ解けません。そんな単純なものではないからなのでしょう。浅はかですね、わたし。



純真な人であったこと。どんなに追い込まれても活路を見出す人であったこと。活路がひらけたのは、彼女が心温かく、殺生を嫌い、無駄な命のやり取りを無くしたいとの命がけの行動があったからだと思います。あの時代の武家に生まれた者からしたら、何をたわけたことを言っているのかと、相手にもされないようなことを本気で考えていたのですから。龍雲丸が言っていました「あいかわらず、いかれておるの〜」と。彼のあの笑顔と、懐の深さに支えられ、晩年の彼女は、人生最後の仕事に打ち込めたのです。

龍雲丸は龍。直虎は虎。龍虎という言葉があるくらい、どちらも引けをとらない強い者同士です。龍は架空の生き物で、天で一番強いもの。虎は実際の生き物で、地上で一番強いもの。龍雲丸という架空の人物をドラマに盛り込み、最終章を作り上げたこと、ステキななアイディアだったと思います。直虎は地に根付き、龍雲丸は自由に雲のように生きる。けれど、どちらも同じ穴のムジナ。一番分かり合える存在だったのではないかとも思ったりしました。言葉なしに、何も伝えようとしなくても。本質として、お互いを見抜いていたからこその、パートナーシップだったと今は思います。虎には虎の生き方がある。龍には龍の生き方がある。だから役目を果たしたら一緒に暮らそうと、そこまで待つと彼は言ったわけで、「そうしたら本当にババアになってしまう」と言えば、そのときは自分もジジイだ、と、別れ間際でも直虎の生き様を理解してあげていた龍雲丸は、そうそういない理想の男性かもしれません。



やってみねばわからぬではないか。できることしかしないのか、やってみようとは思わぬのか。祖母がよく言っていました「やってやらんじゃ」と。総集編の最初のシーンが滝壺に飛び込むシーンでした。無垢に、あそこに道があると思えば突き進む、そうした「おとわ」ぶりが観られて嬉しかった。城主となって、城主らしくなりすぎて「おとわ」の影が薄れてきたとき、和尚様が「つまらんの〜」「もう、おとわは、おらんようになってしまったのかの〜」と、猫を撫でながら言っていたシーン。面白かったです。

和尚様はいつもユニークで、それが直虎を和ませ、ぐちゃぐちゃに絡まった糸をほどき、にっちもさっちも行かないようにされ続けた「井伊」を守ってくれていたことがわかります。最終回で、満千代に、あの白の碁石を渡した時、碁石は「遺志」だと気づかされました。政次の辞世の句も再び聴くことができましたし、直親の、あのキラキラした笑顔にも再会できました。これからも観続けたいです。



柴咲コウさんが大河の特番で言っていられました。命があること、それを見つめ直すようになった、という内容だったと記憶しています。「生きているのだから」と。私もそうです。生きていられるのは簡単なことじゃないこと。今の時代は命はあって当たり前に思ってしまいますが、明日の自分がどうなっているのかもわからない時代を生きていた人もいたのだということ、忘れたくないです。

戦争や、そうでなくても、ご病気や、それ以外でも、命が明日につながることが、どんなに大変なことかを経験している方々が現代にもいます。貧困もそうです。最後に直虎が和尚様に、寺ひとつだけ残して、人払いをしたいと言ったこと。そうすれば、井伊に来て生きる道を見出せるかもしれない人々を受け入れやすくなるのではないかと言ったこと。あの時の直虎の気持ちがもっと知りたいです。


 
|author : 村松 操 | リラックス | 20:08 |